ものさし

 

よく、瞑想をするときに

 

『私、無になれないんです〜!!』

 

という声を聞きます。

 

瞑想 = 無になる

 

というイメージを持ってる方って多いんですね。

 

無になるって、どういうことでしょうか。

 

仏教では『無我』『無心』と言ったりしますが

 

これは、自我を無くすことです。

 

『無になること』と『無心でいること』

 

これは似てるようで、ちょっと違うんですよ。

 

というか、けっこう違うんです。

 

 

『無になること』は、思考や感情・感覚が全く無い状態。

 

(と私は捉えています。)

 

一方『無心でいること』は、思考も感情も感覚もある状態。

 

でもジャッジメント(判断)がない状態。

 

 

ではジャッジとは何でしょうか。

 

私たちはそれぞれ自分のモノサシを持っています。

 

自分の思考や感情や感覚を、自分以外の誰かや世界を、

 

そのモノサシで測って

 

比べて、判断するんですよね。

 

白か黒か。まるかばつか。善か悪か。甲か乙か。

 

そのモノサシを『自我』と呼ぶのだと思います。

 

 

 

無心でいることは、自我を休ませること。

 

つまりモノサシを使わないこと。

 

でも、私たちは普段からあまりに自我と一体化してるために

 

モノサシを使ってることに無自覚です。

 

モノサシを使わないためには、自分がモノサシを持っていることに

 

まず気づかなければなりません。

 

 

 

だからこそ、道元禅師はこう言ったのではないでしょうか。

 

『仏道を習うといふは、自己を習うといふなり。

 

 自己を習うといふは、自己を忘るるなり。』

 

 

この自己は自我のこと。

 

自我を忘れるの前に、

 

まず自我を知らなくてはならないのです。

 

 

 

思考も感覚も感情も、実は問題ではなかったんです。

 

今日は『自我』という私についてのお話でした。

 

今度は、もう一人の私についてお話しますね。

 

お楽しみに☆